庭園貸切露天風呂の旅館大沼

ごてんゆ行進曲物語

これからの湯治場の顔となる駅

旧鳴子御殿湯駅 このたび、半世紀ぶりに東鳴子温泉の最寄り駅である「鳴子御殿湯駅」が JR 東日本のご協力で全面改築されました。ここ数年間取り組んでいる地域づくりの動きの中で、前 JR 東日本仙台支社長清水愼一氏などとの出会いがあり、今回の大英断となりました。
新しい駅は地元の木材がふんだんに使われ、駅に降りた瞬間からどこか懐かしい、湯治場の玄関口にふさわしいほっとするような雰囲気になっています。土間空間は高い吹き抜け構造になっていて、畳のスペースも作られました。駅の屋根を高くしたのは、近くを通る国道 47 号線から見たときに東鳴子のランドマーク的な存在になって欲しいという願いもありました。
この設計案に落ち着くまで、 JR 側から何パターンもの案が提示されました。そのつど地元住民と JR が一緒になって検討し、その結果地元の意見を最大限活かしていただいた今回の素晴らしい駅舎の設計デザインとなったのです。おそらくは日本中探しても、地元の意見がこれだけ取り入れられたしかも瀟洒な駅はないのではないかと思います。

地域が一つになって祝うためには

[上] 鳴子町長の筆による鳴子御殿湯駅看板・[下] 昔をしのぶ改札口 地元にとって駅が新しくなることは全く思いもよらない奇跡的なことでしたので、なんとかこの喜びを地元住民で分かち合いたいと考え、 9 月 18 日に新駅オープニング・セレモニーを地元と JR 合同で行いました。
東鳴子温泉の地域づくりは、「東鳴子ゆめ会議」のメンバーを主力として進められてきましたが、そこでの目標は旅館も商店も住民も垣根を取り払い、地域がひとつになるということでした。数年にわたり地域づくりをしているとは言え、活動しているのは観光協会の役員がメインで、まだまだ地域がひとつにはなっているとは言えないのが現状だったと思います。私は半世紀前に先輩達が 130 回以上の請願を国鉄に対して繰り返し、やっとの思いで開業に導いた御殿湯駅の全面改築のオープン時こそ、地域が一体となれるチャンスであると考えていました。そしてあることを密かに仲間と計画しました。それはこの地を訪れている湯治客も含め、旅館、商店、住民が一緒になって歌い演奏できる東鳴子温泉の行進曲を作り、この駅のオープニング時にみんなで歌い演奏し町を練り歩くというものでした。

縁台の「縁」で作曲家と出会う

畳敷きの囲炉裏コーナー 今年の 6 月 5 日、東鳴子での縁台作りをサポートしてくれた東京・深川の縁台美術家荒野真司さんの招きで東京・浅草にあるアサヒビールの本社で行われたアサヒ・アート・フェスティバル 2004 のオープニングイベントに私は公民館の大沼幸男さんと一緒に参加しました。
その時、たまたまいた荒野さんの知人で、作曲家の大場陽子さんと出会い、湯治場にいてみんなで歌える行進曲を作ってみませんかとお話ししました。彼女は作曲家仲間で「クロノイ・プロトイ」というグループを結成し、映画音楽を作ったり、いろいろ活躍しているようでした。彼女はその場で私の行進曲の話を面白そうですねと言ってくれました。その後彼女は東京から東鳴子に下見に来て、地元の仲間たちとどんな曲にしようかと朝まで飲みながら話し合いました。その中で、地元の人たちから、おれはタンバリンくらいだったらできる。私はカスタネット、子どものピアニカもあるよ、小学校のころリコーダーをやっていました。などなど、いろんな楽器の話しがでてきました。だったら、いろんな小楽器をじゃかじゃか演奏しながら、みんなで行進できるのがいいねということになり、だいたいの基本線はその飲み会の席でなんとなく決まりました。

はじめての作詞

吹き抜け構造の高い天井 翌日作曲家の大場さんが帰る時、彼女は私が全く考えていなかったことをひと言口にしたのです。それは、私は作曲を担当しますが作詞は地元の方に書いていただくことになります、という事でした。
この言葉を聞いて私は一瞬頭がくらくらし、曲を作るためにはやらなければならないかなあと思いながらも、その時はうーんとうなるような返事しかできませんでした。なぜなら、私は作詞なんて一度もやったことがありませんし、どんな風に書くのかさえ想像もつかないことでしたから。彼女を送ってから、困ったときにいつも相談する公民館の大沼幸男さんに、作詞をやらなければならなくなってしまったのですが、どうしたらいいでしょうか?と聞いたところ、彼はほとんど表情を変えずに、そんなの簡単ですよ!と言い切りました。えっ、作詞なんて一度もやったことがないし、想像もつきません。と言ったら、いやいや簡単ですからやってみてごらんなさい。と何喰わぬ顔で言うのです。確か、以前幸男さんもシンガーソングライターの方に曲を作ってあげるから、作詞はお願いしますと言われた時、これはすぐ書かないと絶対に歌を作ってもらえないと思い、次の日に 6 番まで詞を書いて送ったことがあると言っていたのを思い出しました。私は幸男さんが 6 番まで書いたのだったら自分は 10 番までは書かなければと思い、幸男さんの簡単ですという言葉にだまされ、その日の内に 10 番まで書き、作曲家の大場さんにメールで送りました。翌日、大場さんから返事が来て、決して詞が悪いわけではないのですが、イメージをもっとつかむためにあと 3 〜 4 パターン書いてもらえませんか?と言われたときはさすがにがっくり来たのをおぼえています。

ついに楽譜が届く!

「ごてんゆ行進曲」楽譜 その後、メールでのやりとりを何十回と繰り返し、 8 月の上旬にはまだ完成ではありませんでしたが、大体のイメージのつかめる手書きの楽譜と縁台美術家の荒野さんはじめとする深川の縁台チームが、酔っぱらいながら予行演奏してくれたテープが送られてきました。私は楽譜が読めませんので、まず深川チームが予行してくれたテープを聴いたのですが、なんか荒っぽい感じかなーという印象を受けました。もちろん、東京下町の深川っこが酒を飲みながら歌っているのですから、勢いがいいのは決まってます。とりあえず、みんなにもそのテープを聴かせたのですが、深川の皆さんの歌のせいかどうかはわかりせんが、いまひとつピンと来ないといった感じでした。 8 月中は大場さんがドイツに遊学しており、 9 月上旬に帰国後、清書された楽譜が送られてきました。その楽譜を元に地元のコーラスの先生の高橋良子さんにお願いして、ピアノの伴奏をしてもらい、その日ちょうど新潟から帰省していた音楽の先生をやっている娘のよう子さんに歌を担当してもらって、私は太鼓、旅館組合長の菅原さんが鈴というたった 4 人のメンバーで、みんなに曲のイメージを伝えるためのテープを旅館大沼の山荘で録音しました。そしてできあがった「ごてんゆ行進曲」に少しでも親しんでもらおうと、急遽録音したテープを観光協会の役員をはじめ、心当たりのある住民の方々に事前に回しました。その時すでに本番 1 週間前、もう後戻りはできません。

はたして人は集まるか?

そんなばたばたと準備を進める私に実はとても心配なことが 2 つありました。ひとつは、人が集まるかということでした。行進曲というくらいですから、人が集まらないと様になりません。いつもの観光協会のおやじ連中は義理で来てくれるかもしれませんが、観光とは全く関係のない一般住民の方達が集まってくれるか全く自信がなかったのです。もう一つは、いざ人が集まってくれたとして、ほとんどの人は楽器などはやったことがない人たちです。楽器といっても、タンブリン、カスタネット、鈴、ピアニカ、リコーダーなどですが、いざリズムに合わせて歌いながら演奏するとなると相当難しいと思わざるを得ませんでした。そして、迎えた初日の練習日、なんと練習会場の入り口を見ると、たくさんの履き物があり、遠くから子ども達がはしゃぎまわっている声が響いてくるではないですか。この時、どんなに立場は違っても熱意は通じるんだなあ、本当にありがたいことだと思いました。いざ練習に入ると、地元コーラスグループをまとめている高橋良子さんの名リードのおかげもあり、子ども達の元気な歌や演奏を中心にどんどん練習が進んでゆきます。およそ 1 時間半が過ぎたころ、初めての全体練習だったにもかかわらず、ぎくしゃくしていた演奏や歌もすっかり曲らしくなっていました。そして、自分でも驚いたのは、テープを何十本もダビングしたせいもあるかもしれませんが、はじめはぴんと来なかった「ごてんゆ行進曲」もすっかり耳になじみ、気づくとそらで口ずさむほどになっていました。後から聞いた話ですが、練習に参加した小さなお子さんも家で歌っていたという話しを聞き、とても嬉しくなりました。たぶん「ごてんゆ行進曲」は聞けば聞くほど、歌えば歌うほど、演奏すればするほど、どんどん味がでて良くなってゆく、 " するめ " のような曲ではないかと思います。そして「ごてんゆ行進曲」がするめ的である以上、この曲本来の良さを出すためには、みんなが心を合わせ、少しづつでも一歩一歩、曲に取り組んでゆくことが大事ではないかと感じました。これも終わりがないのです。まさに縁台(遠大)なる計画です。もちろん、ごてんゆ楽団も団員を随時募集して次の機会に備えています。

子どもからお年寄りまでたくさん集まってくれた! 実際に行進しての夜行練習

いよいよ本番

オープニングセレモニーでのテープカット いずれにしても、子ども達をはじめたくさんの人たちが集まってくれたこの日を境に、私もなんとかやれそうだなという感触をつかむことができました。その後、「ごてんゆ行進曲」を作曲した大場さん本人が 2 日前から東鳴子入りし、直接指導にあたり、暗闇の中で行進しながらの練習などを繰り返し、いよいよ本番を迎えたのでした。 9 月 18 日のオープニング・セレモニー当日は快晴で夏を思わせるほどの暑さでした。今回のセレモニーは昭和初期のイメージでやろうということで、みんな懐かしい着物姿で参加することにしました。スタート地点の旅館大沼には、地元の子ども達からお年寄りをはじめとして、宿に泊まっている湯治のお客さん、東鳴子以外の地域の芸達者や友人、東鳴子の応援団、町や宮城県地域振興課の大信田さんなども含め総勢 60 名ほどの「ごてんゆ楽団」が集い、なんぶや旅館の岩渕特攻隊長の笛を合図に、私の太鼓と大場さんのキーボードをのせた、公民館の大沼幸男さん特製のリヤカーリムジンを先頭に町中をこの日のために作った「ごてんゆ行進曲」を演奏し練り歩き、沿道の人たちから喝采を浴びました。飛び入り参加の川渡温泉タクシー、通称三味線タクシー社長、小山さんの三味線の響きもごてんゆ行進曲の少し間の抜けた古い調子と妙に似合います。東京から来た私の友人で、通称あやしい音遊人、多田広巳さんはお手製の太鼓ビパ・ドラム 150 で参加。私の大太鼓の合いの手に、いい感じでリズムをとってくれます。子ども達の元気な声、お母さんたちのコーラス隊、おじさんたちのぼそぼそした歌、それぞれが少しづつずれてはいるのですが、この行進曲ではそれがまた味になるのが不思議です。私はごてんゆ楽団の行進をリヤカーリムジンの上に立ち、太鼓をたたきながら見ていたのですが、一人一人が本当にいい顔をしていました。そして、こんな風にして、地元の人たちに祝ってもらえ、新しい鳴子御殿湯駅もきっと喜んでくれているに違いないと感じました。

リヤカーリムジンを引く県の職員、大信田さん 昔のいでたちで 子ども達のひたむきな演奏

笑顔、歓声、そして「ごてんゆ行進曲」!

音遊人・多田広巳さんと作曲家・大場陽子さん 新駅では高橋鳴子町長や鈴木 JR 仙台支社長をはじめとする多数の関係者がごてんゆ楽団の到着を迎えてくれ、セレモニー演奏の後、楽団は木の香りが新しいホームに移動し、蒸気機関車 D51 「義経号」の到着を待ちました。決して広いとは言えないホームはごてんゆ楽団をはじめ見物客、テレビなどの報道陣、関係者らで埋め尽くされ足の踏み場もないくらいです。御殿湯駅にこんなに人がいるのを見たのは後にも先にも初めてです。蒸気機関車 D51 「義経号」がけたたましい汽笛を鳴らし、白い蒸気を勢いよく吐きながらホームに入って来ました。すかさず多田音遊人が演奏開始の合図を"ほら竹"のぶぉーという音で響かせます。いよいよごてんゆ行進曲の演奏開始です。 SL の乗客が窓から乗り出して見入る中「ごてんゆ行進曲」が元気いっぱい演奏され、オープニング・セレモニーは最高潮を迎えました。このときの情景を今思い浮かべても、胸に熱いものがこみ上げてきます。長かったような、そして一瞬のようにも感じた 4 分間の停車の後、再び自分を駆り立てるように勢いよく蒸気を吐き、泣き叫ぶような汽笛を鳴らし SL がゆっくりと動き始めした。御殿湯駅の長い長い鉄橋を越え、その姿が線路のかなたに見えなくなるまで、ごてんゆ楽団は精一杯歌い演奏し続けました。演奏が終わり、ホームにあふれんばかり陣取った楽団員からわき起こった満面の笑みの万歳三唱は、ホームの向こう側の山並みにこだましたような気がしました。

SL「義経号」、御殿湯駅の長い鉄橋を渡る 新御殿湯駅に「義経号」到着

全ての人に感謝、そして次のステージへ

ごてんゆ楽団、笑顔の記念写真 今回のセレモニーそして、住民が一緒になって参加した「ごてんゆ行進曲」はセレモニーや楽団に参加するしないにかかわらず、その場にいた全ての人に何かを残してくれました。様々な業種・立場を越えて一つになる大切さ、音楽に取り組む素晴らしさ、みんなで力を合わせて成し遂げる達成感、人のつながりの尊さ、等々数え上げれば本当にきりがありません。
私にとっても 2 年半前に思い描いていた、その地に住む人々が一体となった地域づくりというものにようやく一歩進めたと感じた瞬間でした。最後に半世紀ぶりに駅の全面改修という大英断を行い、我々にこのような機会を与えた下さった JR 東日本の皆様そして、今回「ごてんゆ行進曲」ならびにセレモニーに関わってくださった全ての方々に心からの感謝を捧げたいと思います。

東鳴子ゆめ会議 事務局長
旅館大沼 五代目 湯守